7月22日13時30分から、広尾の北里大学薬学部で、医療制度研究会主催による「産科医療補償制度の本質を議論する」という討論会が開催されました。産科医療補償制度原因分析委員会の岡井崇委員長と、この制度に対する批判の急先鋒である池下久弥医師(池下レディスチャイルドクリニック院長)及び井上清成弁護士が徹底討論するという企画です。
討論会企画の趣旨
産科医療補償制度というのは、分娩に関連して脳性麻痺となったお子さんに、医療機関側の過失・無過失を問わず一定の経済的補償を行うとともに、脳性麻痺の原因を分析し、同種事案の再発防止に役立てようという制度です。詳しくは同制度のホームページをご参照ください。
この制度に対して、井上弁護士は「産科医療補償制度は私的制裁であり私的裁判である〜医療事故調の誤った実際例」、池下医師は「産科医療補償制度で紛争は増加し産科を希望する医師はいなくなる」、「医師の人権が無視されている」といった批判を浴びせています。
前回の医療制度研究会主催の講演会で、演者であった池下医師の「原因分析報告書が紛争を誘発する」という発言に対し、岡井委員長がフロアから事実誤認を指摘したことから、今回の討論会が企画されたということのようです。
井上清成弁護士の発言
討論会は、まず井上弁護士のプレゼンから始まりました。その目玉は、弁護士チームによる紛争増加の影響評価です。井上弁護士は、石川善一弁護士(山梨県弁護士会)、田辺幸雄弁護士(東京弁護士会)及び、大磯義一郎、神田知江美、山崎祥光という3名のダブルライセンサー(医師と弁護士の二つの有資格者)に対し、100件の原因分析報告書について、産婦がそれを持参して法律相談にやってきたと仮定した場合、「損害賠償請求をやってみる価値あり」とアドバイスする案件がどれほどあるか」という評価を依頼していました。その結果は、石川意見によれば26〜44件、田辺意見によれば38件、ダブルライセンサーグループによれば38〜63件。これらを総合して三者のいずれかに相談に来たら訴訟に至るのが確実に思える案件が19件、紛争になるのが確実に思える案件が29件、紛争になる可能性がある案件が69件(可能性なしが31件)という数字を出しています。因みに、井上弁護士のところに相談に来たら79件は紛争になる可能性があるそうです。
池下久弥医師の発言
それに続く池下医師は、原因分析報告書の評価を「判決」とし、三権分立に違反する明らかな憲法違反である、と主張しました。さらに、「医師を『犯罪人』にする『有責判決』は、開示された100例中79例の79%に及び、『無責』判決は21例に過ぎない。この報告書開示で、患者は分娩機関に不信感を持ち紛争を起こす。この報告書『判決』があれば、民事裁判で勝訴することは確実で、損害賠償金は1億5千万円にもなるからだ」などと自説を展開しました。
また、原因分析報告書が、産婦人科診療ガイドラインに沿った評価をしている点も批判しているようです。ガイドラインは法的拘束力はなく、必ずしも従う必要はないのに、それに従わないと、即、有責と判断してしまうのはおかしいのではないかというのが池下医師の立論です。
岡井崇医師の発言
これに対し、原因分析委員会の委員長である岡井崇医師は、平成23年末までに補償対象となった252件のうち、損害賠償請求されているのは10件(うち損害賠償義務が確定したものが2件、訴訟中が3件、交渉中が5件)、これに証拠保全だけ行われている8件を加えても18件、全体の7.1%でしかないという数字を上げて反論しました。以上は補償対象となったものを母集団としたものですが、23年末までに報告書が送付された87件を母集団にすると、損害賠償請求(証拠保全を含む)が行われているものは8件です。そのうち6件は報告書送付以前に請求の意思が表明されており、報告書送付後に請求がなされたのは2件だけでした。
また、産婦人科診療ガイドラインに反すれば有責だというような法的な判断は加えていない。ガイドラインは産婦人科医がみんなで議論して、みんなで決めたものなのだから、これを守っていこうというのが我々の立場だというのが岡井医師の説明でした。
明らかになった結論
池下医師の言説は、原因分析報告書の「誤っている」、「劣っている」、「医学的妥当性がない」といった否定的な評価を、そのまま「有責判決」、「犯罪人(扱い)」に結びつけるものです。いくら法律家ならぬ医師であるとはいえ、壇上から制度批判をする以上、もう少し、判決、三権分立、有責・無責、犯罪者といった言葉の意味を勉強してほしいものです。ごく普通の弁護士に尋ねれば、それが勘違いであることくらいすぐに教えてくれるはずです。
しかし、井上弁護士によれば、産婦が自分に相談すれば、「79件は紛争になる可能性あり」というのですから、池下医師の見解は、井上弁護士のアドバイスを得た上でのものかもしれません。もしそうであれば、医師の法律に対する勘違いを増幅させるものであり、患者にとっても医師にとっても有害無益でしょう。
医療研でも、この原因分析報告書の検討を行っています。「損害賠償請求の価値あり」という案件がどれほどあるかといった観点で分析したことはありませんが、石川弁護士や田辺弁護士の3割前後といった数字はそう外れていないのではないかという印象を受けます。しかし、原因分析報告書が紛争を誘発するかどうかを評価するためには、報告書を読んだ後に、読む前と比べて、損害賠償請求に積極的になるか消極的になるかを検討しなければならないはずです。井上弁護士の分析にはそんな視点は全くありません。
演者間のディスカッションにおける井上弁護士の発言も、理解困難なものでした。
「いま訴訟が起きていないのは、訴訟を起こすとこの制度が潰れてしまうからだ。制度発足5年目の見直しを経てこの制度が定着した段階で一斉に訴訟が起こされる。そのときになって後悔しても遅い」…という趣旨のことを云っていたように聞こえたのですが、いったい誰がそんな陰謀めいたことを企んでいるのでしょう。
「問題は訴訟が多いか少ないかではない。一件でも無辜の医師が責任追及されるようなことがあってはならないし、本来であれば責任追及が可能であった産婦が訴訟を諦めるようなことがあってはならない」…もっともらしい意見ですが、さっきまで原因分析報告書で紛争が誘発され訴訟が頻発することに警鐘を鳴らしていた人の言葉とは思えません。適切な原因分析は、理由のない訴訟が減り、泣き寝入りする産婦が少なくなることにも繋がるはずです。
池下医師や井上弁護士の批判が的外れであることは、明らかです。
会場発言から
162名収容の会場はほぼ満員で、この問題への関心の高さをうかがわせるものでした。東京周辺だけではなく、遠隔地から参加した産科医の方もおられました。その方々の発言は、池下医師や井上医師の発言とは比較にならないくらい健全なものでした。
「自分の施設では年間700件以上の分娩を取り扱っていて訴訟リスクに晒されている。今回の分析対象になった100例の原因分析報告書の中にも、自分が取り扱った脳性麻痺の事例が含まれている。池下先生はその事例を『有責判決』の中に含めているが、実際には、脳性麻痺の原因とは遠い部分で少しお叱りを被っただけであり、必要なことをやっていれば原因分析が怖いものではないことが分かった。こういった事例まで、訴訟になるぞと脅かすのはいかがなものか」
「以前、産科医が努力すれば周産期の妊産婦死亡は3分の1に減らせるという意見を述べると叩かれたものだが、現実にはこの15年間で実際に3分の1に減らせた。同じように、この産科医療補償制度の原因分析によって、脳性麻痺を減らす効果が期待できると思う。ガイドラインに従う必要があるのか否かといった議論もあるようだが、事例の集積によってガイドラインの内容自体が充実していくのではないか」
こういった前向きの発言に対しては、期せずして会場から拍手が沸き起こりました。
問題の本質は何か
この討論会により、原因分析報告書で紛争が誘発され、裁判が頻発するという危惧には何の根拠もないことが明らかになりました。池下医師や井上弁護士がどう感じたかは分かりませんが、少なくとも、会場で討論を聴いていた参加者のほとんどにとって、討論の帰趨は明白だったはずです。
しかし、それが「産科医療補償制度の本質を議論する」という討論会のテーマに相応しいものであったかどうかはやや疑問なしとしません。やはり、問題の本質は、原因分析を脳性麻痺の減少にどう結びつけていくかという点であり、そのために、現在の原因分析が十分なものか否か、その原因分析を今後どう活用していくべきかといった点こそが議論されるべきです。
ただ、この制度で紛争が誘発されるとか、79%の事例で医師が犯罪者扱いされるとか、そういった誤解が産科医の間に蔓延するようであれば、せっかくの原因分析の成果も正当には評価されないでしょう。現実の医療に携わる産科医の方々が、この制度を前向きに受け止めることは、脳性麻痺減少という目標が実現するための必要条件とも云えます。
産科医のみなさんが、池下医師や井上弁護士による不毛な原因分析批判を克服し、ほんとうに本質的な議論に参加されることを願ってやみません。
(小林)
2012年07月24日
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